第2話 天神姉妹(第5版) ・・・削除された読点 【取調室】 「神谷圭佑。お前がやったんだろうが」  狭い取調室に刑事の低い声が響く。俺は力なく首を振るだけ。  やっていない。だが証拠はすべて俺が犯人だと示していた。  どうして。誰が。思考は霧散し絶望だけが腹の底に溜まっていく。 「いい加減に認めろ! お前のくだ- らない動画のせいでどれだけの人間が迷惑してると思ってるんだ!」  俺は刑事のネクタイの僅かな歪みと疲れた目元を観察しながら静かに反論した。 「…あなたの言う『くだらない動画』で救われている人間もいるかもしれない。それにあなたのネクタイ少し曲がってますよ。昨日家に帰れていないんじゃないですか? 大変ですね刑事さんも」  そのあまりにも場違いな指摘に刑事は一瞬言葉を失いすぐに怒りを露わにした。 「貴様馬鹿にしているのか!」  その時だった。  重い鉄の扉が控えめにノックされ許可を待たずに開いた。  そこに立っていたのは黒縁メガネをかけたスーツ姿の若い男と、その後ろから現れた息を呑むほど美しい少女だった。  年の頃は21歳くらいか。シンプルなお嬢様ワンピース姿。その佇まいだけで澱んだ取調室の空気が浄化されるような錯覚を覚えた。 「なんだあんたたちは。ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」  刑事が色めき立つ。しかし別の刑事が少女の顔を見て椅子から転げ落ちんばかりに目を見開いた。 「て、天神財閥の……玲奈様!? なぜこのような場所に……」  天神玲奈と呼ばれた少女は刑事たちの動揺など存在しないかのように、ただ冷たい視線で室内を見渡すとまっすぐに俺を見据えた。 「この男、私が引き取ります」  有無を言わせぬ所有者の言葉だった。  隣の弁護士が黒縁メガネをくいと上げ冷静に告げる。 「不当な取り調べは即刻中止してください。証拠不十分なままの拘束は人権侵害にあたります。これ以上の異議は我々天神法律事務所が正式に申し立てます」  玲奈は俺に向かって小さく頷いた。 「行きましょう、神谷圭佑」  俺は夢遊病者のように立ち上がった。 【偽りの日常】  手錠が外された手首にはまだ冷たい金属の幻影が残っていた。  警察署の自動ドアを抜けると弁護士の桐島が玲奈に深く一礼した。 「お嬢様、私は別件がございますのでこれにて。後のことは柏木にお任せしております」  そう言い残し彼は人混みへと消えていった。  目の前には一台の黒塗りのセダン。その傍らに石像のように佇む初老の男。  俺たちの姿を認めると男は滑らかな動作で完璧なお辞儀をし後部座席のドアを音もなく開けた。 「執事の柏木と申します。圭佑様、どうぞ」  古びた教会の鐘のように低くそれでいて明瞭な声。  導かれるまま俺は柔らかな本革のシートに身体を沈めた。  ドアが閉まると外の喧騒は嘘のように遠ざかりそこは完全に外界と隔絶された静謐な空間となった。 「……俺をどうする気だ」  不信感を剥き出しにした俺の声に隣に座った玲奈は足を組み、顔色一つ変えずにただ静かに自分のスマホを取り出した。  彼女は慣れた手つきでロックを解除すると俺に何も言わずにその画面をこちらに向けた。  画面に表示されていたのは美しい彼女のアイコンと、その横に並ぶ信じられない数字だった。 『天神玲奈 フォロワー 1.2M』  120万人…。俺が血反吐を吐くような思いで動画を投稿し続けても決して届くことのない天文学的な数字。 「…降ろしてくれ」  俺はその圧倒的な力の差を前にそう言うのが精一杯だった。  玲奈は執事に目配せした。車が静かに停まりドアが開く。外の生ぬるい空気が流れ込んできた。 「どうぞ。その汚れた服で容疑者のままあの地獄へお帰りなさい」  その「汚れた服」という言葉に俺は思わず自分の姿を見下ろした。  何日も着っぱなしで襟がヨレヨレになったTシャツ。膝にはいつ付いたかもわからないシミがある色褪せたジーンズ。この服には取調室の埃っぽい匂いと俺自身の冷や汗そして拭いきれない絶望の匂いが深く染み付いている。  玲奈の言う通りだった。これは社会から拒絶された敗者の「ユニフォーム」だ。  彼女は冷ややかに言い放った。「家は特定され殺害予告まで届いている。会社ももうあなたの居場所ではない。それでもいいのなら」  降りかけた足が止まる。そうだ俺にはもう帰る場所なんてない。  玲奈は悪魔のように微笑んだ。 「私はあなたのガチ恋リスナーよ。あなたには才能がある。私にあなたの夢を見させて」  俺はその蜘蛛の糸にすがるしかなかった。  車が向かったのは高級レストランではなくどこにでもあるファミリーレストランだった。 「ステーキです。一番大きいの」  メニューを渡された俺は何かに憑かれたように注文した。玲奈は可愛らしい苺のパフェを頼んでいる。 「……あの弁護士、腕いいのか?」  フォークを弄びながら尋ねると玲奈はパフェのスプーンを口に運びゆっくりと答えた。 「桐島のこと? 彼は天神が抱える中でも最高の駒よ。負けを知らない」  数時間前まで爆破予告犯として詰問されていた男が財閥令嬢とファミレスにいる。あまりの非現実に眩暈がした。 「お姉ちゃーん! Kくーん!」  その時店の入り口から金髪ツインテールの制服少女が駆け寄ってきた。天神莉愛。  彼女も席に着くなり姉と同じパフェを注文する。 「Kくんのガチ恋リスナー天神莉愛だよ!」  彼女もまた百万フォロワーを超えるアカウントを俺に見せつけた。「Kくん大変だったね! でももう大丈夫! 私たちがKくんの女神だもん!」 「莉愛。騒がしいわよ」  姉妹のやり取りを俺は呆然と眺めていた。だがその異様な組み合わせは当然のように周囲の注目を集めていた。 「……あれ天神姉妹じゃね?」 「隣の男誰だろ。彼氏かな?」  ひそひそと交わされる会話。俺たちに向けられる好奇の視線。  その空気の変化を敏感に感じ取った玲奈はパフェのスプーンを置くと静かにしかし有無を言わさぬ口調で妹に告げた。 「莉愛。爺を呼んで」 「おっけー」  莉愛は即座にスマホを取り出し一言二言メッセージを送る。  会計の際玲奈が当たり前のように漆黒のカードを取り出したのを見て、俺は改めて彼女たちの住む世界の途方もなさを思い知らされた。  レストランを出るとまるでタイミングを計ったかのように執事の柏木が運転する黒塗りのセダンが静かに店の前に停まっていた。  車が向かったのは都心にあるシネマコンプレックスだった。エントランスに足を踏み入れるなり女性スタッフが駆け寄り深々と頭を下げた。 「玲奈様、莉愛様お待ちしておりました。本日は何をご覧になられますか?」  スタッフは玲奈たちの隣に立つ場違いな服装の俺を一瞥したがその存在などまるで無いかのように完璧な笑顔を姉妹に向け続ける。  玲奈が「アクション映画を一本。いつものシアターで」と短く告げるとスタッフは「かしこまりました」と俺たちを特別なエレベーターへと案内した。  案内されたのはビロードのソファが並ぶプライベートシアター。  巨大なスクリーンに派手な爆発シーンが映し出される。その轟音に莉愛が大げさに肩をすくめ俺の腕にぎゅっと抱きついてきた。 「きゃーっ! こ、怖くなんてないんだからねっ!」  そのあからさまなアピールに反対隣に座っていた玲奈の眉がピクリと動く。  彼女は何でもない素振りを装いながらそっと俺の手に自分の指を絡ませてきた。  暗闇の中左右から伝わる二人の少女の全く異なる温もり。心臓がうるさくて仕方なかった。  映画が終わると莉愛が「ねえゲーセン行きたい!」と提案した。  シネコンを出て歩いて数分のゲームセンターへ向かう。  俺はなぜか無意識に華やかなオーラを放つ天神姉妹と少し距離を取ってその後ろを歩いていた。  まだ自分が彼女たちと並んで歩くべき人間ではないとどこかで感じていたのだ。 「わー! Kくんの動画で見たレースゲームだ!」  莉愛に手を引かれ三人でプリクラを撮る。狭いブースの中玲奈のシャンプーの香りがして心臓が変な音を立てた。  彼女は無表情だったがほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。  レースゲームでは意外にも玲奈が圧倒的なドライビングテクニックを見せつけ俺は惨敗した。 「Kくんあれ取って!」  莉愛が指さすクレーンゲームには今流行りのアニメの可愛らしいキャラクターぬいぐるみが入っていた。  俺は彼女たちの前でいいところを見せようと挑戦するがアームはぬいぐるみを掴んでは無情にも落とすばかり。 「あーもう!」莉愛がじれったそうに声を上げたその時。近くにいた男性スタッフが駆け寄り慣れた手つきでクレーンゲームの扉を開けるとぬいぐるみを絶対に取れる位置へとずらしてくれた。  そして俺の存在などまるで無いかのように姉妹に向かって完璧な笑顔でこう言った。 「玲奈様、莉愛様どうぞ」  俺はその屈辱的な「お膳立て」を前にただ苦笑いするしかなかった。  莉愛がコインを入れて簡単にアームを操作する。ぬいぐるみがゴトンと景品口に落ちた。 「Kくん取れたよ!」  彼女は満面の笑みでぬいぐるみを抱きしめ俺に自慢げに見せてくる。 「……ああよかったな」  その無邪気な笑顔を前に俺はそう答えるのが精一杯だった。 【美しい鳥籠】  車は夜景の美しい高台にあるモダンな邸宅に着いた。  ガラス張りの壁が特徴的なまるで建築雑誌から抜け出してきたような家だった。 「ここがあなたの物語の舞台よ」  ソファに座る俺の前に玲奈が立った。ゲームセンターでの柔らかな雰囲気は消え彼女は再びすべてを見透かすような冷たい瞳をしていた。 「正直に言うと妹に布教されるまであなたのことなど全く興味がなかったわ。でも…見なければ分からないこともあるものね」 「あなたの才能は音楽だけではないわ。あなたの『自宅紹介』の切り抜き動画、見たわよ」 「なっ…!?」  俺は顔から火が出るほど恥ずかしかった。  玲奈はそんな俺の反応を楽しむように続ける。 「動画の中で妹さんにお給料でゲーム機を買ってあげたと話していたでしょう? ふふっ優しいのね」  彼女は俺の全てを知っていた。俺の才能も惨めな過去もそして誰にも気づかれていないと思っていた不器用な優しさも。 「あなたの作る音楽、書く言葉、そしてその不器用な優しさ。そのすべてを最初に享受するのは私たち。あなたの時間は音楽は未来は全て私たちのもの」  助けられたのではない。捕らえられたのだ。  俺が言葉を失っていると玲奈は決定的な一言をまるで天気の話でもするかのように告げた。 「生活の心配はいらないわ。何しろ明日から私もここに住むのだから」  俺の第二の人生は天神姉妹という二人の女神(アクマ)への甘美な隷属から始まった。